2020年 10月(October)の説教録音
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「キリストのすばらしさ
(…に心奪われ生きる幸い)」 2020年 10月25日 ヨハネ連続講解(第37回) 第7章 17節から24節 舘野 真(伝道者) 「誇り」とは、辞書では「自慢」「プライド」と書かれています。ですが、「誇りをもって生きる」と言う場合の「誇り」とは、人が、心を満たされ、自分の価値と生きる意味を疑わず、自信を持っている状態のことです。この「誇り」を手に入れようと人は努力し、失われないようにと頑張ります。人気者になり、学歴を積み、業績を上げ、望ましい恋人と付き合い、家を建て、貯金を増やします。…あなたの「生きる誇り」は、何ですか? ユダヤ人たちは、割礼の儀式を厳格に守り行うことによって、自分たちは神の選民だと言う誇りを持っていました。しかし主イエスは、ご自身の御業こそが、人を神と永遠に結びつける(割礼よりも、はるかに優れた)神の業であると、お教えになりました。ユダヤ人たちの最も大切な誇りを、主イエスはご自身の存在で置き換えてしまわれたのです。神の御子が、人の本来の生きる誇り、すなわち、神に愛され、平安で、自身に満ちている心 そのものとなってくださったのです。 そして、今日、望まない状況や、他人に承認されない悲しみや、自己嫌悪の中で、私たちの心が苛立ち、うめき、怒りの中ですべてを投げ出し、自分など消えてしまえ!とさえ思ってしまうとき、主イエスは私たちを救うために、ご自身を世に与えていてくださるのです。いのちがけで愛してくださるキリストのすばらしさの故に、私たちの心はキリストを慕い求めます。そして、主イエスは、喜んで私たちの内に住み、私たちに触れて癒し、心優しく愛を教え、私たちの生きる誇りとなってくださるのです。 ■ |
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「キリストは、あなたのために、
いのちがけ」 2020年 10月18日 ヨハネ連続講解(第36回) 第7章 10節から18節 舘野 真(伝道者) あなたは、今日、何を信じて、生きる望みを得ていますか?その望みは、明日、あなたに生きる望みを与えますか?では、5年後、10年後、20年後、あなたは、その望みに生きているでしょうか?神の切なる願いは、私たちが、主イエス・キリストを、今、生きておられる救い主として信頼し、このお方に、神の御子に、神の恵みに、生きる望みを置くことです。この望みは、永遠に失われることが無いからです。 主イエスは、ご自身を殺そうと狙うユダヤ人指導者たちの恐怖支配の権力の本拠地である神殿で、立ち上がり、神の言葉を大胆にお語りになりました。主イエスは、私たち一人ひとりを愛し、一人残らず、この世界もろとも滅びから救い出すために、ご自身の命の危険を顧みず、いのちをかけて語り、十字架の運命へと、罪の世の暗闇を越えて、真っすぐに歩み通してくださったのです。 この主イエスが、復活し、天に昇られ、今日、あなたのために、あらゆる思いや状況を越えて、あなたを訪れ、あなたに寄り添い、あなたを愛して居てくださいます。神の御子が、あなたのために、いつも、いつまでも、いのちがけで、居てくださるのです。日夜、四六時中、神様は、キリストにあって、あなたを愛しておられます。 今日、私たちは主イエスを信じ、神の愛を心に注がれ、神の心優しさに慰められ、聖霊の力に励まされ、湧き上がる喜びと感謝を与えられます。この望みは、決して失望に終わることのない、永遠の、生きる望みなのです。 ■ |
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「不動の愛:
神が神で在られるが故」 2020年 10月11日 ヨハネ連続講解(第35回) 第7章 1節から10節 舘野 真(伝道者) 私たちは、何か問題が起こると、何とかして別の状況に自分が移ることで安心しようとします。そのために自分で頑張ることもあり、他の人を頑張らせようとすることもあります。しかし、そうやって、自分たちで頑張れば頑張るほど、思い通りに行かず、怒りや不安が沸き上がり、闇の中に閉じ込められてしまうことがあります。…そんな時、私たちの救いは、生きる望みは、どこにあるのでしょうか。 主イエスは、「わたしはユダヤには行かない」と仰せられましたが、後から、上って行かれました。これは、主イエスの言動が矛盾していた訳ではありません。むしろ、主イエスは、人の命令や承認ではなく、ただ、父なる神様の御心によってのみ行動なさるお方であられたということが明らかにされているのです。主イエスは、御父の御心によって歩まれ、ご自身を殺そうと狙っているユダヤ人指導者たちの本拠地へと、エルサレムへと、十字架の運命へと、私たちの救いの為に、私たちを愛して、突き進んでくださったのです。 世にあっては、脱出できない苦悩の連鎖が私たちを縛り続けます。しかし、その暗闇の中にこそ、キリストは飛び込んで来てくださり、神の御心とご尽力による愛を打ち立ててくださるのです。キリストの十字架と復活を信じ、神が神で在られるから、そこに在る、不動の愛を知るとき、私たちの心は、愛と喜びと平安で満たされます。私たちは、神の不動の愛に包まれ、生きる望みの輝きと、いつも出会うことができるのです。 ■ |
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「王の王の御前に立つ信仰」
2020年 10月04日 ヨハネ連続講解(第34回) 第6章 64節から71節 舘野 真(伝道者) 「あなたがたの一人は、悪魔だ。」 主イエスの教えは、時に痛烈を極めます。主イエスは、私たちが自分では気づけない心の闇を知っておられます。王の王であられる主イエスのみことばの前で、私たちは、ひれ伏し、沈黙するしかありません。ですが、その時、神の恵みと愛が私たちを包んでいます。 12弟子たちでさえ、やがて、ご自分を裏切り、見捨て、否認することを初めから知っておられた主イエスは、彼らに、「あなた方も、離れて行きたいのではないか?」と問われます。しかし、彼らは主イエスに反論し、「そんなことはない!私たちは離れない、信じている、知っている!」と、自分たちの決意や、信仰や、理解の確かさを主張してしまいます。 しかし、主イエスは真理をお語りになります。「わたしが、あなた方を選んだのではなかったか?」と。弟子たちも、私たちも、悪魔の強大な力の支配下にありました。そんなどうしようもない私たちを、神は愛し、選び、御子と結び合わせて、永遠に生きる者とすることを、恵みによって定めて下さったのです。 「わたしが、あなた方を選んだ」。私たちは、この神のみことばに圧倒され、すべてを支配する王の権威の御前で、こう願います。「ユダである私、悪魔のような私を、憐れんでください」と。 その時、主は、「このわたしが、あなたを選んだのはなかったか?」と、私たちの心に、ご自身の恵みを打ち立て、平安を与えてくださいます。私たちは、王の王の権威あるこの偉大な恵みのみことばによって、心を新しくされ、望みを与えられ、喜びと賛美の内に、日常へと送り出していただけるのです。 ■ |