2020年 11月(November)の説教録音
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「キリストは私たちに
赦しあう力を与えてくださいます。」 2020年 11月29日 コロサイ信徒への手紙 第3章13節から15節 ハリス・アイヴス兄 & ジム・バットン兄(代表役員) ■ |
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「主イエスよ、私たちを、お救いください」
2020年 11月22日 ヨハネ連続講解(第41回) 第7章 43節から52節 舘野 真(伝道者) 人が、聖書的な善行をして神を喜ばせようとする努力は、教会の中に滅びの毒を撒き散らします。なぜなら、私たちの全存在は、罪によって、底知れず暗く、神を激しく憎み、聖書の命令に真に従う心をまったく失っているからです。 それなのに、自分の意志と努力で神を愛することを要求され、その要求に応えようと頑張り続けると、その人の心には、自分にはできないことを愛の条件として突き付ける神への怒りが鬱積し、やがて、神の恵みと愛をまったく見失ってしまいます。それが、ファリサイ人たちの姿を通して、聖書が教えている、私たち自身の姿です。 しかし、神の恵みは偉大です。なぜなら、神を敵視し、愛など微塵も持たない私たちを、神はキリストと共に十字架で滅ぼし、そして、キリストと共に復活させ、私たちが、あるがままで、いつも全力で神を心から愛しているような、まったく新しい存在へと造り変えてくださったからです。私たちが、神を愛する従順も、神に愛される喜びも、どちらもまったく失って渇いてしまっていた時に、神は、キリストの十字架を通して私たちにお示しになったご自身の愛を、聖霊によってあふれるように注いでくださるのです。 神の愛が私たちを満たします。心の中に鬱積した怒りが溶け去ります。他者との関係性が修復され、また、豊かにされます。私たちは、自分の心の暗闇の中から救いを求めます。その時、神は、キリスト・イエスの故に、私たちに心優しく愛をお語りになり、私たちを慰め、私たちの痛みに、癒しをもって応えてくださいます。 私たちは祈ります。主イエスよ、あなたの御力によって、私たちを、お救いください。 ■ |
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「神への、目覚め」
2020年 11月15日 ヨハネ連続講解(第40回) 第7章 37節から44節 舘野 真(伝道者) 年に一度祝われる「仮庵の祭り」は、ユダヤの民が国を挙げて神の救いを感謝して賛美する、喜びの祭りです。現代の教会も、毎週の礼拝を行い、特にこの時期、楽しいクリスマスを演出しようとします。しかし、人間が作り上げる人工的な美しさや神々しい雰囲気の真ん中で、主イエスは立ち上がり、叫ばれます。「あなたが、もし、渇いているなら!」と。 現世では、自分の力で自分を生かさなければならないという、実は誰にも負えない重荷を、人は背負わされてしまっています。しかし、人の生きる労苦は、結局は死に終わります。死と滅びに向かってひた走る私たちの生涯の真ん中で、主イエスは立ちあがり、叫ばれます。「わたしのもとに来なさい!」と。 キリストがご自身の十字架から命を懸けて叫ばれた言葉が、世界に鳴り響いています。父なる神が御子の十字架によって示された燃える愛が、教会に語られています。神の御子の言葉が私たちを目覚めさせます。私たちは主イエスを信じ、キリストの十字架の下に行きます。そこで、主イエスは、「わたしを飲みなさい」と、無限の恵みと心優しさをもって、ご自身を私たちに与えてくださいます。 このキリストを信じる時、神はその人をキリストと結び合わせ、聖霊を心に宿らせてくださいます。人の心が、目覚めます。そして、どんな時にも、どんな状況の中にも、神は共に居てくださることを、その人は知り、心を軽やかにされ、あふれる喜びを与えられます。主イエスにこそ、神の救いの約束は、いつも満ち溢れているのです。 ■ |
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「今、すべてが、新しい」
2020年 11月8日 ヨハネ連続講解(第39回) 第7章 32節から36節 舘野 真(伝道者) 「生きる」こととは、何でしょう。お金を持ち、世間を知る大人たちは、それを「保身」だと考えて、30年の長期ローンでマイホームを建てたりします。でも、幼子にとって「生きること」とは、これとは全く違います。幼子は、常に保護者に連れられ、よたよた歩きながら、新しい光景と出会い、未知に触れ、世界の仕組みを新しく知ることを喜びながら、ただ存在します。 人が生きることとは、神様を自分の親として信頼し切ることです。神様がすべての必要を満たしてくださる恵みに包まれ、神様が導いて下さる現実をいつも新しく体験し、神の愛を新しく知ることを喜びながら、ただ存在することです。生きることとは、人が自分を素晴らしく保つことではなく、むしろ、人が、神様ご自身のすばらしさを常に新しく心に知らされ、神様を喜ぶことなのです。 でも、主イエスは仰せられました。「わたしがいるところ(すなわち神のみもと)に、あなたがたは来ることはできない」と。私たち人間は、一人残らず、自分でどんなに努力して善い行いをしても、どんなに聖書に従っても、実は、1ミリも神様に近づけなくなってしまっている、罪びとに過ぎません。 だからこそ、主イエスは、ご自身を私たちに与えておられます。神様を失ってしまった私たちが、苦しみ、悩み、病む中、主イエスが、私たちの心の中で、希望の光となってくださるのです。主イエスの十字架と復活を通して、神が叫んでおられる愛の御声を聞く時、私たちは、すべてを超える神の恵みに包まれ、救われます。今日、いえ、今が、その時なのです。 ■ |
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「幸せの理論
(神が人に与える、真の幸い)」 2020年 11月1日 ヨハネ連続講解(第38回) 第7章 25節から31節 舘野 真(伝道者) 美しい音楽の背後には、理論があります。生命にも、遺伝子という理論に基づいた仕組みがあります。すべてものの背後には、理(ことわり)があります。人が生きる道にも、理があり、それを心得る人は幸いを得、逆にそれを見失うと、人の心は暗くなり、むなしくなり、迷い、苦しみます。 人は誰でも、自分の知識という色眼鏡を通して世界を見ながら幸福を探し回りますが、それがどうしても見つからず、見つけたと思ってもそれを失うことを恐れて、失望しています。そんな私たちに、父なる神は、御子イエスを通して、疑いようのない、幼子によって見いだされるような、真の幸いへの理をお示しになりました。 主イエスの叫びが、私たちの心に飛び込みます。「わたしは父なる神から出たのであり、神がわたしを遣わした!」、と。これこそが、私たちのために神が備えてくださった、唯一の生きる道、幸せの理です。主イエス・キリストが、神の元から出て、今、私たちと共におられるということが、私たちの心を幸いと喜びで満たす祝福の源なのです。 私たちは色々なことで悩み、苦しみ、悲しみの果てに人の命を断ち切ろうとさえしてしまいます。でも、あらゆる状況の暗闇の中で、救いの光が輝いています。「キリストが、今、生きておられる!」と信じることで現実となる、神の愛です。神のみことばの力が、主イエス・キリストを信じる心を、私たちの魂に、いつも蘇らせていてくださるのです。だから、私たちは、いつも、心強いのです。主イエスを信じること。それが、幸いの道を生きる理なのです。 ■ |