大みかキリストの教会 OMIKA CHURCH OF CHRIST
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2021年 1月(January)の説教録音


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水面下の苦しみに_あなたはエル・ロイ
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「水面下の苦しみにーあなたはエル・ロイ」

2021年 1月31日
創世記 第16章1節 から16節
野口良哉(茨城キリスト教学園チャプレン)


…そのあと、主の使いを通して、主なる神は、10~12節にありますように、ハガルの子孫繁栄の祝福、そして、生まれる子をイシュマエルと名付けるべきこと、さらには、その行く末をハガルに説き明かしたのであります。

女奴隷ハガルは、どれほど嬉しかったでしょうか?その不安は平安に、悲しみは喜びに、絶望は希望へと変えられたのであります。そして、13節にありますように、ハガルは「自分に語りかけられた主の名を」、“エル・ロイ”と呼んだのであります。“エル・ロイ”とは、ヘブライ語で「私を見ていて下さる神」という意味であります。女主人に追い出され、広大な荒野のど真ん中で、たった一人ぼっちでいた女奴隷ハガル。心細かったハガル。しかし、そんなハガルにしっかりと目を留めていて下さったお方がいたのであります。優しい眼差しを注いでいて下さったお方がいたのであります。ハガルはそんな主なる神を「私を見ていて下さる神」、すなわち、“エル・ロイ”と呼んだのでした。

さらに、そんなハガルにやがて男の子が生まれ、主なる神のお言葉通り、その子を「イシュマエル」と名付けたということが、15節から分かります。ところで、そんな「イシュマエル」とは、一体、どういう意味でしょうか?・・・旧約聖書の原語ヘブライ語で「イシュマエル」とは、「神は聴いて下さる」、もしくは「聴いて下さる神」という意味であります。おそらく、この命名には、誰もいない荒野におけるハガルの叫びを主なる神が聴いて下さっていた、ハガルの叫びに、主なる神がしっかりと耳を傾けて下さっていたという事実が反映されているのではないでしょうか?確かに、誰の声も届きそうにない荒野で、主なる神はハガルの叫びに、聴き耳を立てて下さっていたのであります。

今を生きる私たちにもまた、時に、一人寂しく荒野を歩く時があるのではないでしょうか?・・・まさに、現在のコロナ禍の世の中は「荒野」であると言えるかもしれません。
しかしながら、本日、見て参りましたように、そんな荒野でこそ、私たちは改めて主と出会い、神様と出会う可能性があるのであります。そして、それだけでなく、女奴隷ハガルにそうであったように、主なる神は、あなたにも、そして、私にも、「私を見ていて下さる神」“エル・ロイ”として、あなたの叫びを「聴いて下さる神」“イシュマエル”として、あなたの人生の荒野で、私の人生の荒野で、あなたに優しい眼差しを注ぎ、私の叫びに聴き耳を立てて下さっているのであります…。(説教原稿から抜粋)
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2021_01_24_主イエスの家への招き.mp3
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「主イエスの家に、招かれる」

2021年 1月24日
マタイによる福音書 第9章9節 から13節
舘野真(伝道者)


ファリサイ人たちは、自分が聖書の命令を行うことで義とされ、神に喜ばれると信じ、聖書の命令を守れない人たちを「罪びと」と呼んで侮蔑し、一切の関係を断ちました。主イエスは、まったく逆に、その罪びとたち「こそ」を喜んで受け入れ、一緒に食事をし、神の権威によって罪の赦しをお与えになりました。

このような、ファリサイ人と主イエスの対立を見て、弟子たちは、そして、私たちも、教会として、ひとりの信者として、皆心を問われます。自分はどちらの側に在りたいと願うのかを。
 
私たちは、こう考えます:「私たちが聖書から神様の御心を理解し、それを行うことを、神様が喜んでくださる」とか、「私たちがキリストの命令に従わないと、神は私を赦さない」とか。そのように、私たちは、何らかの理由で、「あんな人は(私は)罪びとだ」と裁き、神様が与えてくださる罪の赦しと私たちへの喜びを、勝手に締め出してしまうのです。心優しい主イエスの恵みが満ち溢れている神の家の中に入ろうとしない心の頑なさによって、私たちは身を削り、苦しんでしまうのです。

そのような私たちをあわれんで、主イエスは、ご自身の十字架と復活の御業を通してお語りになります。「わたしが来たのは、人には癒せない罪の病を負っているあなたのためだ」と。また、「どうしようもない罪びとでしかないあなたを招くためだ」と。「わたしに従いなさい」と。
 
今、主イエスの家へと、罪が赦される神の恵みの中へと、あなたを新しく造り変える聖霊の御力の中へと、御子の御声が私たちを招いています。主イエスの御声を聞くならば、神の力によって私たちは立ち上がらされ、キリストの弟子とされ、聖霊を通して注がれる神の愛によって、日々慰めと励ましを受け続けて歩む、新しいいのちの道に移されるのです。ハレルヤ。神に感謝します。
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2021_01_17_神があなたを求めておられる
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「神が、あなたを、
探し求めておられる」


2021年 1月17日
創世記 第3章1節 から10節
舘野真(伝道者)


私たちは、教会に所属して信仰生活を送る中で、神様を喜ばせようと頑張る焦りが先立ち、信仰生活がどんどん苦しくなることがあります。それでも頑張り続け、苦しみを耐え続けた結果、何か大切なものが抜け落ちてしまっているのに、それに気づかなくなります。クリスチャンとして一番大切なものとは何でしょうか。
 
人類(アダム)が最初に罪を犯したその日、私たちの心は、神様の無限の愛と恵みによって注がれる祝福を、むしろ、無慈悲な呪いとして全く誤解し恐怖するようになってしまいました。私たちは、神様が与えてくださるはずの「いのち」の根源から自らを断ち切り、神と隣人に愛されることも、愛することも、どちらも全くできなくなり、死んだのと同然の状態になってしまいました。
 
しかし、神は、人間の自業自得のその滅びの中に、「あなたは、どこにいるのか!」と、私たち一人ひとりを呼び求め、探し出し、救い出そうと(神ご自身が)尽力しておられるのです。神様は、天地創造の時から今日に至るまで、一日たりとも休むことなく、私たちを、ご自身の唯一の御子、主イエス・キリストにあって救おうとしておられるのです。
 
私たちは、神の御子の十字架と復活の言葉を通して、今日、ここで、主なる神様の愛の呼びかけを聞きます。私たちを探し出し、キリストと結び付け、滅びから命に移し替えようとしておられる「アッバ・父」の言葉を聞きます。御子を通して御父に信頼するその日、私たちは聖霊を通して神の愛を再び知るようになり、魂の中から抜け落ちていた、神様への喜びと感謝と讃美を日々新しく与えられ、心を満たしていただけるのです。
 
考えてみましょう:
あなたの信仰生活において、次の内のどちらが、他方に対して、どれくらい大切ですか?
  • あなたが神を愛すること/神があなたを愛してくださること
  • あなたの努力と自己改善/キリストの十字架と復活の力のはたらき
  • あなたの愛情と赦しの力/聖霊の愛と赦しの力
  • あなたの努力と働きの力/宇宙に満ちる全てのエネルギー
  • あなたが神を求めること/神があなたを求めておられること
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2021_01_10_命の君主イエス
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「命の君、私たちの王、慰めの神」

2021年 1月10日
ルカによる福音書 第9章57節 から62節
舘野真(伝道者)


この世界は、人が立ち止まって心とからだを本当に休めることを中々許してくれません。人は、いつも「突き進め!」と求めてくる世のプレッシャーに支配され、何とかして自分の力で自分の命を保ち引き延ばそうと、何かにしがみつきます。自分たちの「死」が、敗北であり終焉であり暗闇の絶望だと恐れます。しかし、「死」はすべての人に訪れ、すべての決心、すべての努力、すべての功績を、容赦なく、永遠に滅ぼしてしまいます。
 
しかし、その絶望の中に在る私たち一人ひとりに主イエスは目を留めて語りかけてくださる。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と言われる。この言葉は、ご自身の十字架と復活の御業によって、この世界での人の死を越えて、信じる人に永遠の命を与える神の力です。主イエスの御声を人が聞くなら、その日、その人は、死から命へと、滅びから復活へと、世の絶望の暗闇から神の愛の光の中へと、移されます。
 
すべての人を救う神の力を世界に与えるご自身の十字架と復活の御業を成し遂げるために、誰一人として入ることができない真の信仰の道を、主イエス・キリストが神の権能をもって歩み通してくださったのです。徹底した孤独の中、神の御心を成就する信仰を、御子が私たちのために貫いてくださいました。

私たちは、このお方によって救われます。このお方が、罪と死に圧倒的に勝利します。その勝利と喜びの中に、主イエスは、「わたしについて来なさい!」と仰せられるのです。

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2021_01_03_人の起源
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「人の起源ーあなたは神に
愛されるために造られた」


2021年 1月3日 新年メッセージ
創世記
第1章26節 から 第2章3節 まで
舘野真(伝道者)


「神に救われるために、自分は何をすればよいのか」。 この問いに、人が一つでも正しい答えを持ち得るならば、人はその行いで救われます。しかし、それは逆に、自分にはキリストの十字架の他にも救われる根拠があり得ると言っているのと同じです。イエスの教えに従うことを自分が選択し実行すれば神に愛されると言う態度は、実は、キリストの十字架を無益にする不信仰なのです。
 
天地創造の物語が示す人間の起源は、神ご自身のご尽力によって、神の似姿として人が造られ、すべての必要を満たされ、完全に愛された出来事です。神の力によって新しく創造された人は、「自分がどうすれば神に愛されるのか」などとは、考えることすらできなかったのです。その問いを敢えて問うことは、神の愛を自分の努力で手に入れようとする自分勝手な努力であり、その人が神の愛のすばらしさを見失っている証拠です。
 
新しい年が始まりました。まとわりつく穢れを打ち払い、新しい心で一歩を踏み出したいと願うこの時、自分が神に新しく創造されたことを思い出しましょう。父なる神は、御子の十字架と復活を、私たち自身の十字架と復活としてくださいました。私たちは神の力によって、キリストと共に死に、しかし、キリストと共に生きる新しい人とされ、その神の御業の故に、神にまったく愛されているのです。

私たちは、キリストにあって神を信じて、神に感謝し、聖霊に導かれて神を賛美しつつ歩みます。キリストの十字架と復活の力に促される新しい人生への一歩を、毎日、いつも新しく、踏み出します。
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